LPGC WEB通信  Vol.19 2015.10.13発行 

LPガスの日特集「プロパンだからできた世界一周」

今から86年前の昭和4年(1929年)8月19日、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯
号(Graf Zepperin)LZ127」が世界一周の途次、霞ヶ浦海軍航空隊基地(茨城県阿見
町)に飛来しました。
 このツェッペリン伯号のエンジンには主燃料として「プロパンと水素」を混合したブラウ
ガスと称するガスが使われていましたが、このブラウガスがなければ世界一周はできません
でした。霞ヶ浦ではこのガス燃料の補給が行われたといいます。
 LPガスの日特集として今回は「プロパンだからできた世界一周」と題し、その秘密を探
ってみたいと思います。また、日本人が初めてLPガスを知ったのもこの時です。
 なお、本文中ではいくつかの試算をしておりますが、限られた文献・データをもとにして
いますので、あくまでも概算・概数とお考えください。
     
1 飛行ルート
 飛行船による人類初めての世界一周に挑んだツェッペリン伯号は昭和3年に建造されまし
た。翌昭和4年の世界一周ルートは、下図のとおりです。




 8月 8日  米国・東海岸のレイクハースト(ニュージャージー州)を離陸
 8月10日  ドイツのフリードリッヒス・ハーフェン(ボーデン湖畔の都市で同船の建
        造地であり母港でもある)に着陸
 8月15日  ドイツを離陸(滞在日数6日間)
        北欧 → モスクワ上空 → シベリア上空
 8月19日  北海道上空 → 東京・横浜上空 → 夕刻、霞ヶ浦に着陸
 8月23日  日本を離陸(滞在日数5日間)
 8月26日  米国のロスアンゼルスに着陸
 8月27日  離陸(滞在日数2日間)
        米国を横断
 8月29日  東海岸のレイクハーストに着陸(世界一周完)

 上記の東回りルートで世界一周を成し遂げたのです。
 全飛行距離は約3万1千km、全所要時間は21日間と7時間半、また、実際の滞空時間
は320時間余と伝えられています。
 なお、この世界一周飛行のスポンサーはアメリカの新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハー
スト、その他ドイツ、フランス、日本の新聞社等々です。そのため、世界一周の航路は、ア
メリカのレイクハーストが基点となり、また、日本にも寄港することになりました。
 わずか3ヵ所の寄港地の一つに日本が選ばれたこと、また、滞在日数も5日間と比較的長
かったことなど、スポンサーであることとは別に、列強の仲間入りをしつつあった当時の日
本のポジションが分ります。

2 霞ヶ浦では
 当時の世界最大のイベントであり、霞ヶ浦には一目見ようと連日30万人もの見物客が押
しかけたといいます。阿見町史にもこの出来事が掲載されていますし、今でも町民の誇りと
なっています。
 また、「君はツェッペリンを見たか!」が当時の流行語になったとのことです。今ならば
流行語大賞まちがいないでしょう。
 なお、一行のために土浦市の古くからの料亭「霞月楼」で歓迎レセプションが開かれたと
の新聞記事も見られます。霞月楼・創業百周年記念史には「エッケナー博士(ツェッペリン
社・社長)は靴のまま座敷に上がってきた」とか「なぜかレーマン船長の靴下には穴が開い
ていた」とのユーモラスな出来事が書かれています。




3 ツェッペリン伯号LZ127概要
(1)Spec



 ツェッペリン伯号の骨格はジュラルミンで作られており、外皮は帆布(麻、絹等)にシル
バー塗料が塗られていました。船体内は後程述べるように、大半の部分がガスバッグ(嚢)
で占められていました。なお、ツェッペリン伯号は小型飛行機を吊り下げることができ、航
行中でも飛行郵便や緊急貨物等の輸送に使われていたということです。

(2)浮揚用水素
 ツェッペリン伯号の浮力は空気と水素のガス比重の差で得ていますが、水素1㎥で約1.1
5kgの浮力が得られますので、浮揚するのに必要な水素の容積は、

  
■90,000kg÷1.15kg/㎥≒78,000㎥

となります。ツェッペリン伯号の場合は、船体が17の仕切り(cell)で区切られてお
り、数千㎥くらいの大きなガスバッグが何枚も収納されていました。浮揚用の水素はそのガ
スバッグに充填されていました。ガスバッグは木綿布にゴム引きをし、牛腸を張り合わせて
作ったものです。

(3)ゴンドラ・旅客・乗組員
 ゴンドラ内には操縦室、ギャレーやダイニングルーム、また10室の客室があり、日本に
飛来してきたときの旅客は2名×10室=20名(最大40名まで可)でした。また、飛行
中の退屈しのぎもあって、ダイニングルームではよくダンスパーティーが、また、赤道祭や
誕生会なども催されたと伝えられています。
 また、この世界一周の搭乗者にはツェッペリン社・社長であるフーゴ・エッケナー博士を
はじめとして、日本人も搭乗していました。大阪朝日新聞の北野記者、大阪毎日新聞の圓地
記者、そして飛行船のエキスパート藤吉海軍少佐の3名です。無線電信室から2人の記者が
送る記事は、それぞれの新聞の号外となって日本中を駆け巡り、大変な騒ぎになったと言わ
れています。
 3人は霞ヶ浦で下船し、替わりに草鹿海軍少佐(後の連合艦隊参謀長)、柴田陸軍少佐、
日本電報通社の記者らが乗り込んでいます。



 乗組員はこの旅客の2倍以上の40数名が乗り込み、通常のオーシャンタンカーなどの外
航船と同じ3直・24時間体制で操船をしていました。乗組員の居住はゴンドラではなく、
船体内の一部に専用の区画がありました(明かり窓もない、屋根裏のような部屋だったとい
います)。
 この大きな飛行船をエルンスト・レーマン第一船長等と40名以上の乗組員が操って、世
界一周の冒険飛行に飛び立ったのでした。





(4)調理と給湯はオール電化も電力は風力発電+ガスエンジン発電
 550馬力のエンジン5基を回すほど大量のプロパンを積んでいたのですが(約38トン
と推算)、調理器具と給湯器にはLPガスは使われませんでした。ギャレーでの調理は電熱
レンジ、調理給湯やシャワー・洗面給湯は電気ヒータ温水器でした。いわゆる「オール電
化」です。これは、浮揚ガスの水素の特性として極めて引火性が強く、裸火は厳禁だったか
らです。実際に後々継船の「ヒンデンブルク号LZ129」は1937年5月に米国のレイ
クハーストで浮揚ガスの水素による謎の爆発・炎上事故を起こしています。ツェッペリン伯
号の第一船長であったレーマン船長を含む35名が亡くなりました。
 ギャレー用の電気は主として、船外に取り付けられた風力発電機で賄っていました。もち
ろん、本船内で使う電力は莫大ですから、エンジンに取り付けられた発電機からの電力が使
われていました。当時、海軍技術研究所が詳しい調査をしていますが、そのエンジン写真に
も発電機が明記されています。ちょうどガスエンジン発電機「エコウィル」のようです。



4 マイバッハ・エンジンと燃料
(1)マイバッハ・エンジンはバイ・フューエルかデュアル・フューエルか

 エンジンはドイツの誇るマイバッハ(Maybach)製のVL2水冷V型・12気筒・エンジ
ンです。
 このエンジンは、プロパン+水素のブラウガスとガソリンが使用できました。これがバイ
・フューエル(切替え専焼)エンジンかデュアル・フューエル(混焼)エンジンかは、現存
の文献ではわかりません。しかし、飛行中に両方の燃料を使っていますので、想像ですがデ
ュアル・フューエルではないかと思います。出力550馬力×5基搭載です。また、写真か
ら判断すると排気量は15~20ℓ程度かと思われます。
 写真左は建造時の写真、写真右はツェッペリン伯号の母港であるフリードリッヒス・ハー
フェンのツェッペリン博物館に展示されているエンジン(実機)です。



(2)「プロパン+水素」ブラウガス
 船体に対する浮力の影響を避けるために、ガス比重が空気の約1.1倍になるように調合さ
れたプロパンと水素の混合ガス(ブラウガス)が主燃料でした(一部はガソリンを使用)。
混合ガスは大気圧と同じ圧力でガスバッグに充填されたといいます。 
 ブラウガスに含まれるプロパンの比率(混合モル分率)mを求めてみましょう。純プロパ
ンと純水素の混合ガスとして計算すると、

 
■29[空気の平均モル質量]×1.1=
      
(44[プロパンのモル質量]×m+2[水素のモル質量]×(1-m))

から、プロパンの混合モル分率mは0.712(約71%)となります。したがって、水素の
モル分率は0.288(約29%)です。また、ブラウガスの発熱量は71.4[MJ/㎥]、ガ
ス密度は1.42[kg/㎥]と試算されます。

 
■ブラウガスの発熱量
  95.6
[プロパンMJ/㎥]×71%+12.1[水素MJ/㎥]×29%≒71.4[MJ/㎥]
 ■ブラウガスのガス密度
  1.963
[プロパンkg/㎥]×71%+0.085[水素kg/㎥]×29%≒1.42[kg/㎥]
 
 当時のプロパンはややブタンリッチと言われていますので、実際の含有率は70%以下か
もしれません。

(3)ツェッペリン伯号の内部構造
 下の写真は、浮揚用の水素バッグに水素を充填しているところです。プロパン+水素のブ
ラウガスも恐らく同じようなガスバッグに充填されていたと思われます。ただし、設置場所
は浮揚用水素バッグの下の下部通路の両側です。水素バッグとブラウガスバッグの間には船
首から船尾までを貫く中央通路がありました。



(4)プロパンの輸入と充填
 ブラウガスのプロパンは米国のユニオンカーバイド&カーボン・ケミカルズ社(現ダウ・
ケミカル子会社のユニオンカーバイド社)製で三菱商事が輸入したものです。我が国で初め
てのLPガス輸入となりました。商品名はパイロファックス(ブタンはパイロジーン)と称
していました。輸入の荷姿は100lb(ポンド)≒45kg容器です。戦後、日本ではこ
の100lb容器を真似て50kg容器が作られるようになりました。
 ブラウガスの飛行船への充填は旧日本石油(現JX日鉱日石エネルギー)の田口技師らの
手で行われました。このガスを後日海軍燃料工廠に持ち込んで分析したところ、プロパンで
あることが分ったといいます。
 これが、「日本人が初めてLPガスを知った時」ということになります。

5 「プロパンだからできた世界一周」
(1)燃料はどのくらい積載したのか

 フリードリッヒス・ハーフェンから霞ヶ浦までのシベリア横断飛行11,000kmにお
いて、エンジン5基を延べ442時間運転し、ブラウガス17,500㎥とガソリン3,750
kg(約5,200ℓ)を消費したと記録されています。
 仮にデュアル・フューエル・エンジンとすれば、エンジン1基当たりの燃費は、

 
■ブラウガス 17,500㎥÷442h(5基分)≒40㎥/h・基
 
■ガソリン   5,200ℓ÷442h(5基分)≒12ℓ/h・基

となります。
 また、このときの飛行日誌には、「まだ、6,000km位飛ぶ量の燃料が残っている」と
の記述があるので、離陸時に積載した燃料の総重量は、アバウトな計算ですが、
 
 
■積載したブラウガスの容量(体積)と各成分量
  17,500㎥÷11,000km×(11,000km+6,000km)≒27,000㎥
  (熱量から計算するとガソリン換算では約40,700kgとなります)
  ブラウガス中のプロパン量 27,000㎥×71%=19,170㎥(≒37,660kg)
  ブラウガス中の水素量 27,000㎥×29%= 7,830㎥(≒700kg)
 ■積載したブラウガスの空気中での重量
  27,000㎥×(1.42[
ブラウガス密度kg/㎥]-1.30[空気密度kg/㎥])≒
   3,240kg
  (ブラウガスは空気の浮力を受けますから、空気中での重量はわずか3,240kgで
   す)
 ■積載したガソリンの重量
  3,750kg÷11,000km×(11,000km+6,000km)
   ≒5,800kg(約8kℓ)
 ■積載した燃料の総重量(空気中での)
   ブラウガス3,240kg+ガソリン5,800kg=9,040kg

と試算できます。10トン足らずの燃料で飛行したことになります。もちろん、実際にはブ
ラウガス+ガソリンとして、


 ■プロパン37,660kg+水素700kg+ガソリン5,800kg=44,160kg


の燃料が積載されていたと推算されます。 
 Specでは航行可能距離15,000km以上とありますが、風や天候等に恵まれれば恐
らく、17,000km程度まで伸びたのではないでしょうか。



(2)「プロパンだからできた世界一周」
 もし、ガソリンだけで飛行するとすれば、ガソリンの空気に対する浮力は無視できますの
で、ガソリン燃料の総重量は、

 
■ブラウガスに相当するガソリン重量40,700kg+5,800kg=46,500kg
  (約65kℓ)


となって、船体重量90,000kgの半分以上を占めてしまい、とても世界一周のような飛
行はできません。しかし、先ほどのブラウガス+ガソリンならば燃料の総重量は9,040
kgですから、船体重量の約10%を占めるに過ぎません。
 これが、「プロパンだからできた世界一周」の秘密です。

(3)ガスバッグだらけのツェッペリン伯号
船体内は、浮揚用水素ガス78,000㎥とブラウガス27,000㎥の合計10,5000㎥
のガスバッグで占められていたと思われます。船体の幾何容積は111,000㎥、残りの6
,000㎥が通路部分や乗組員居住区、ガソリンタンク、バラスト水、物品庫…等々というこ
とになります。実にガスバッグが95%を占めていることになります。

6 ツェッペリン伯号の飛行日誌から
 ツェッペリン伯号の飛行日誌から、日本に係わる部分を紹介いたします。
●大圏コースに乗ってゆけば、カムチャツカ、ウナラスカを越えて6000kmの距離であ
 り、気象概況によれば、その空域では殆ど追い風であると思われた。そうすれば燃料はお
 そらく足りるであろう。
【だから米国までは行けるであろう……筆者注】
 だが、日本人は何と言うだろう?
 もし、寄らずに通過してしまったらモスクワ市民以上に怒るに違いない………
●夜明けに北海道の西側に居り、午前6時には積丹半島の神威岬の燈台の上を飛んでいた。
 そこから雨の中を函館の大きな燈台に向けて飛び、雨が上がって本州沿岸を進んだ。この
 世界周航のうちで最も長く、最も困難な部分を無事に乗り切ることが出来た。
 この先も我々の前には、社会的にも政治的にも責任のある問題が控えていた。
 次の着陸地点は霞ヶ浦であり、遠くにその格納庫が輝いているのが見えた。そこは非常に
 賑やかであった。数十万人の人が飛行船を見るために道に溢れていた………
【一般の歓迎
  振りは少しく狂気ヂミたる処あり……陸軍大臣を務めた宇垣一成の日記より……筆者注
】



●この壮挙を東京の人々に見て貰うために、まず首都・東京へ飛び、そこから世界中から来
 た沢山の客船が投錨している港、横浜へ向かった。
【東京・横浜では皆が空を見上げているの
  で、電車はほとんど空っぽで走っていた(当時の新聞から)……筆者注
】
 この2つの街の街路や広場で繰り広げられた興奮と熱狂の情景を記載するのは省略して、
 ただ、沢山の人の中に居た1人の詩人が、群衆の熱狂の様子を詩にしていたことを紹介す
 るに留める。
【この詩人は恐らく「ツエッペリン伯號に寄す」という題の詩を読売新聞・文芸日曜
  付録に寄せた北原白秋ではなかろうか……筆者注
】
 1時間半の飛行の後、夕刻霞ヶ浦飛行場に着陸した。飛行船は有能でよく訓練された日本
 海軍の水兵によって手際よく格納庫に収容され、海軍が警備にあたった。
 東京にはまるまる6日間滞在した……
【実際には5日間の滞在……筆者注】
●前日の午後、暗い台風のような嵐が吹き荒れて、翌朝も強い風が格納庫に吹き付けて飛行
 船を引き出すことは出来なかった。待たざるを得なかった!
 将校や提督達が出発のために再び参集した。私は格納庫正面の椅子に腰を下ろして待って
 いた。風がおさまったらすぐに飛行船を引き差すために誰も外に出さなかった。そして、
 そのときが来た。
【離陸前に積み込んだロサンゼルスまでの船内食は帝国ホテル謹製の食品・缶詰や
  ワインなどで当初計画の1トンが2トンになった(帝国ホテル・百年史)、また、5,500通の米国向
  けの葉書・封書が同船に積み込まれた、現在でもこれらがオーションに出品される……筆者注
】
 午後3時に離陸したのである。公式には認められていない大群衆は心から見送ってくれた
 。モスクワ上空を飛べと言ってエッケナー博士に詰め寄ったソビエト・ロシアのカルクリ
 ン氏も霞ヶ浦で下船している。
 霞ヶ浦からロサンゼルスまでの乗船者は20名と変わらないが、ロサンゼルスでは後述の
 トラブルのため乗船者を減らしてレークハーストまで運航された………

7 こぼれ話
(1)霞月楼

 世界一周の一行が歓待を受けた土浦市の料亭「霞月楼」は霞ヶ浦・海軍航空隊の副隊長
(大正13年~)だった山本五十六が贔屓にしていた店です。二代目亭主の堀越正雄と女将
の満寿子が故郷(現長岡市)を遠く離れた山本五十六を可愛がり、土浦の親代わりのようで
あったと言います。
 山本五十六はハワイ真珠湾攻撃の3日前の12月5日に連合艦隊旗艦「長門」から堀越正
雄・満寿子に手紙を出しています。その直筆の手紙が同楼の資料室に飾ってあります。
 また、ツェッペリン伯号の2年後の昭和6年(1931年)8月26日にはリンドバーグ
夫妻が水上機である愛機「ロッキード・シリウス号」で霞ヶ浦に飛来し、歓迎パーティーが
やはり霞月楼で開かれています。


(2)マイバッハ(Maybach)
 ツェッペリン伯号には5基のエンジンが搭載されていましたが、各々のエンジン・ゴンド
ラに操機士が24時間体制で張り付いていました。操縦室からのエンジンテレグラフの信号
で操機士がエンジン出力調整などの作業を行っていましたが、エンジンからくる騒音と振動
、また、風圧や高所での作業ということで大変な仕事であったと言います。
 飛行船ツェッペリンに搭載されたこのエンジンは、ウィルヘルム・マイバッハと息子のカ
ール・マイバッハがツェッペリン社の飛行船専用のエンジン製造会社を1909年(明治4
2年)に設立し、そこで製造したものです。その後のマイバッハ社は乗用車や軍用車両、戦
車などのエンジンも生産していました。
 1966年にマイバッハ社はダイムラー・ベンツの傘下となり今日にいたっています。2
002年にはマイバッハブランドがよみがえり、ベンツが誇る高額・最高級車として販売さ
れています。当初搭載されたM285型エンジンは、水冷V型12気筒・最高出力550馬
力で、ツェッペリン伯号のエンジンSpecとそっくりです。ただ、技術の進歩で排気量は
5.5ℓとだいぶ小さくなっていますし、運転中の静寂性は特筆ものです。



8 アーカイブス
 NHKのアーカイブスに日本に飛来したツェッペリン伯号の様子が動画として格納されて
います。
 
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060014_00000

(特別寄稿/大森栄治)